語り継ぐ

大屋誠

2020年08月12日 13:18

 夏が来ると恩給援護係に勤務していた頃に担当業務として覚えた「戦傷病者」「戦没者」「中国残留孤児・婦人」などの言葉を思い出します。
 今は恩給援護係という係も無くなり、地域福祉課に自立支援・援護係というところが所管してます。戦後75年が経ち、戦争がもたらした悲惨さを語り継ぐ人が鬼籍に入り、少なくなっています。
 8月15日がポツダム宣言を受諾して我が国が敗戦国として歴史に刻まれた日としては知られていますが、満州開拓団の人たちにとって8月9日を忘れることができない日でしょう。ソ連が日ソ間で結ばれた不可侵条約を破棄して一気に中国東北部の満洲に侵攻して来たのです。
 守ってくれる当時の関東軍は一早く情報を得て直ぐに退却し、満州開拓団で入植した皆さんは全く知らされないまま流れてくる噂話から得た情報で逃避行を続けました。
 そして、その逃避行は終戦記念日と云われる8月15日を過ぎた9月7日頃まで続きました。その間、親子バラバラになったり、途中でチフスなどの病気に罹り亡くなるなど悲惨な過酷な運命を辿りました。
 長野県は当時全国で最も多く開拓団を出した都道府県(約7%)という事は知られていますが、開拓団の中には中学生くらいの若者もおり、募集し、派遣した恩師の中には終戦後、悔いの言葉を残しています。
 私は東京代々木で対面の場に立ち会った事がありますが、孤児の皆さん、関係者の皆さんが戦後40年以上前の記憶を埋めようと真剣に聞き取りに応じている姿を目の当たりにしました。もう少し早ければもっと判明していたかもしれません。『時』は心を癒してくれるときもあり、残酷な結果となってしまうことがあります。
 未判明孤児の皆さんは、残留孤児の調査が始まった当時は、帰国する道はありませんでしたが、その後、特別身元引受人制度ができて新しい戸籍を得ることが出来帰国することが出来ました。
 身元判明調査が終わり、誰も関係者と名乗って来ない方もおりました。中国へ帰途する際、本当に悲しそうな顔を忘れることが出来ません。
 この事業を国に何度も何度も働きかけて実現した方がいます。自身のお子さんが残留孤児だった阿智村の故山本慈照さんです。
 この方がいなければ国は動く気配すらなかったと思います。詳しいことを知りたければ阿智村にある満蒙開拓記念館を訪ねてみてください。
 戦後の歴史の中で“戦後”という言葉がなかった人たちがいることを私たちは忘れない不断の努力が必要です。75年という歳月を経て、年老いた語り部の声に耳を傾けることが、次の世代に誤った方向に向かわないようにする私たちができることです。
 勇ましい言葉に惑わされない力を持つことが最近の世界情勢を見ていると必要と強く感じます。