2020年08月16日

語り継ぐ(その3)

 この話は以前載せた事があると記憶していますが、戦争の酷さや人の運命というものを考える上で強烈に記憶に残っているので再度掲載したいと思います。
 社会部厚生課恩給援護係に勤務して3年ほど経った時のとある日、一本の電話がかかって来ました。厚生省援護局からの電話、「ソビエトに抑留されて現地で亡くなった人の長野県関係者の遺骨が判明した。」「ご遺族に報道発表について希望の有無を確認して欲しい」との事でした。
 当時、抑留者の遺骨収集が冷戦を終えてシベリアでようやく始まったとの記事を見た事がありますが、どうも聞くと初めての確認出来た方らしい。
 早速、県外のご遺族の方に引取りについてお聞きすると、引取りの意思はあるが、マスコミには知らせないで欲しいとの事でした。
 この旨、厚生省に連絡しご遺族と日程調整をして私が東京厚生省経由でご家族の元にお帰り頂くこととしました。
 その日が明後日という時、もう一本、厚生省から連絡がありました。「中国残留孤児の家族が明後日、羽田に着くので迎えをお願いしたい」との事でした。
 中国残留孤児の迎えは出身地の都道府県が行うとされているので、担当の職員が行くこととなったが、帰国される中国残留孤児の方は何とシベリア抑留で亡くなられた方の娘さんだったのです。
 何という偶然、こんな事があるのかと思いました。後、2〜3年で戦後50年を迎えようとする同じ日にそれぞれ行き別れた父は家族のもとに戻り、娘は母国の土を踏むという、運命というものを感じざる得ませんでした。
 娘さんは帰国希望であったのですが、ご家族は中国で暮らしに困らない暮らしをしているならという気持ちで身元引き受けを拒否していました。
 それも家族の思いやりから来ている情の深さだと思います。身元が判明しても様々な事情で引き受けしないご家族の方々がいたのも現実でした。
 帰国の事実を家族にお知らせした方が良いのか、悪いのか、厚生省から遺骨を引き取ってご家族が住む住所に向かいました。
 白木の箱に入った遺骨はとても大きいものでした。それはシベリア現地でダビに付して、足から頭まで全部を収骨しているからとのことでした。厚生省から『大きな風呂敷を持って来て』という指示があったので意味が?と思いましたが、遺骨が入れられた箱を見て納得しました。
 厚生省から出て新幹線に乗っている間中、ずっと胸の前に抱いて、娘さんの事をお知らせすべきかどうか考えていました。
 今は県外に住むご家族が住む家の前にタクシーで乗り付けると、奥さん、息子さんなどご家族が玄関前に出ていて礼服を着て迎えてくれました。
 私が「今日、◯◯さんが、シベリアから帰って来ましたので、お送りしました。」というと、奥さんからお礼の言葉がありました。
 私はその後に意を決して「これを申し上げて良いのかと思いましたが、今日娘さんが羽田に中国から帰って来ます」と伝えました。
 それまで冷静であったお母さんが聞いた途端に泣き崩れました。私は「この事は本来伝えるべきことかと思いましたが、お父さんが帰って来てという日にあまりにも偶然にも偶然で、家族が一緒にという亡きお父さんの気持ちがあったのかもしれません」と伝えました。
 帰庁して上司にこの旨を報告しましたが、上司は特に咎める事もありませんでした。
 運命ともいうべきものが有るとするならば、この家族に降り注いだ余りにも過酷な体験はどう写っているんでしょうか。
 その後の事は知りませんが、家族が今でもお元気で暮らしておられることを祈念しています。

 

  • LINEで送る


Posted by 大屋誠 at 08:20│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。