2020年08月29日

大人の休日?

 残暑が厳しい毎日が続いていますが、先日B&Gから配備していただいたSAPを木曽川で体験しようと“木曽の桟”で体験しました。
 朝から日射しが厳しく、童心に帰るこうした体験は嬉しい限りです。木曽川も岸辺は暑くだらだらと汗が吹き出てくるような感じでしたが、一旦サップに乗って川に出ると涼しい風が身体を突き抜けて行く感じで心地良かったです。

△おっかなビックリのスタート



 一緒に行った職員も互いにチンすることを期待しながらの試乗ですが、深さが4m近いところもあるので注意深く漕いでいましたので、期待に応えることは出来ませんでした。
 本当は川面からの写真撮りたかったのですが、溺れて無くしてしまう恐れがあるので、上から勇姿を撮って頂きました。
△バランスを取れればゆっくり流れる時間を感じながら過ごせます。



 漕がないと下流に流されると思ってましたが、下流から吹く心地よい風で上流に向かって進みました。私の身体が帆の役目でしょうか?



 桟の巨岩がえぐれている様子や400年前に造られた桟の石積みが間近に見えて迫力がありました。
 スタッフと「ここなら安全に配慮してやれば、子どもも大人も楽しい時間過ごせるね」などと話しました。
 総延長も400m近くあり、紅葉の時期に浮かべてみたいと思いました。

おまけ)
 帰りがてら寝覚の床に寄ったら岩の上から飛び込んで泳いでいるグループがいました。
写真の中にいますが、分かりますか?




  
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Posted by 大屋誠 at 12:12Comments(0)上松町

2020年08月28日

木曽南部木曽川右岸道路整備期成同盟会要望活動

 27日午後、貴舟大桑村長、向井南木曽町長に3町村の議長さんに加えて大畑県議とともに県庁を訪問し、田下昌志建設部長さん、坂下参事さん、片桐道路管理課企画幹さんに町村の整備状況を説明しながら要望活動を実施しました。
 木曽川右岸道路整備は木曽地域の悲願ともいうべき事業で平成元年に林道整備事業から始まっています。
 木曽地域を木曽川とほぼ並行して走る国道19号線は木曽地域はもとより、中京方面と長野市やその先の日本海をも結ぶ重要な路線ですが、ひとたび災害が発生したり日常でも大きな交通事故が発生するとその機能が全く麻痺してしまいます。
 それを補完するのが右岸道路です。現在計画されている木曽南部については延長45キロで、現在22.6キロが完成して供用されています。
 北側から徐々に事業が進められ、当町に関わる箇所では登玉(のぼりたま)地籍から大桑村和合地籍までの3.2キロが残っていましたが、今年度完成して供用されます。
 当町の道路に関する部分ではこれで終了する事になりますが、国道19号線とのアクセスで右岸道路と結ぶ橋の新設について、県と相談させて頂きたいと要望しました。
 当町の北には赤沢に通じる新小川橋があり、下って行くと下河原橋、桃山橋という二つの橋がありますが、下河原橋は農道として整備されたもので普通車がやっと通行出来る幅員しかなく、加えて最近の木曽川の増水時に桁下まで水が来て流失する恐れがあります。
 そうした事態が起きると約7キロの間で木曽川を渡る橋がないという状態となります。周辺には障害者施設があり、老人福祉施設の移転計画が進むとともに、児童養護施設があります。そうした時にどうしても必要な橋と考えていますので、今後県ともよく相談し、一刻も早く整備が出来るよう県や国に要望して参りたいと考えています。

△田下建設部長に要望書を提出しました。


  
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Posted by 大屋誠 at 11:29Comments(0)上松町

2020年08月27日

残暑の中に紅葉?

 朝のウオーキングなどで見慣れた風景に最近『?』と思うことがあります。夏の深緑の山の中に紅葉の季節の末期の様に枯れた木が点在しています。
 昨年頃から何となく目に入っていたのですが、自然界ではそうして枯れて行くには当たり前の現象です。栄枯盛衰の言葉のとおりですが、今年に入ってそれがあちらこちらに見えてくれば別です。
 初めは松食い虫?と思っていましたが、それが「ナラ枯れ」というカシノナガキクイムシが運ぶ病原菌による病気によるものだと教えて頂きました。

△林道台が峰線鬼淵付近の様子です。





 ミズナラやコナラなどブナ科の樹木に穿孔して餌となる糸状菌を持ち込み繁殖させ枯らすそうです。松食い虫が枯らす松は松茸や用材として利用されるので人間にとって影響ははっきりした形で分かりますが、ミズナラやコナラは薪用か木工品の原材料という限られた用途となります。
 しかしながら、自然界で不要になるものはありません。ミズナラ、コナラは皆さんご承知のとおり、“ドングリ”の実を付ける樹木です。人間界では影響は少ないものの、森の動物たちにとっては食糧が無くなるという緊急事態です。
 例えばクマやリスなどが代表例です。クマは人家の近くに出てきた時に木に上ってリンゴをかじっている様な画像がショッキングに放映されているシーンがありましたが。それは空腹状態でどうしようもないからしょうがなく食べていると昔聞いたことがあります。
 やはり、ドングリが冬を越すに当たって重要なエサとなっているのです。人間に影響が少ないと先ほど書きましたが、エサが不足すれば里に出てくる機会が増えてくる事が懸念されます。
 処理するには松食い虫の被害木と一緒で伐採してその場所である程度の大きさに切ってまとめて燻蒸する事だそうですが、とてもコストがかかるという事です。
 まだ実態調査をしていく段階と聞いていますが、緑の中に突然現れた現象、それが急速に拡がっている事にどんな影響があるのか危機感を感じます。
 今、木曽町境に更に北上しているとの話もあります。5ミリ程度の小さな虫が生態系に大きな影響を与えようとしています。
 そういえば、新型コロナも目に見えないウイルスでした。もしかしたら、自然界が大きなものの謙虚さを求めているのもしれません。

△南部の下河原付近



△荻原地籍より西側望む



  
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Posted by 大屋誠 at 10:20Comments(0)上松町

2020年08月23日

防災・減災に願いを込めて(第34回上松町総合防災訓練)

 今日、23日、日曜日に第34回上松町総合防災訓練が行われました。昨年までは住民の皆さんに避難参集訓練として参加する形の訓練でしたが、今年は新型コロナ感染症の拡大を受け、職員は参集訓練に避難所の段ボール製簡易ベッドの作成、オンラインによる研修とし、住民の皆さんにはJアラートによる情報伝達、CATVを活用した危機管理課が独自に作成した自主番組を放映しました。
 つい先日の梅雨前線による大雨による災害などは記憶に新しいところです。
 避難所の考え方も、近年の災害の激甚化やコロナ禍の影響で国や県の考え方が大きく変わってきております。
 『避難』というと、避難所に行くというのが今まで一般的な考え方でしたが、コロナで密になるリスクがあることや急激に変わる天候などを考えると家の中の二階の崖から離れた安全なところに居る、或いは近くにある安全な知人や親戚の家に行くという事を「自分の命を守る」行動として呼びかけています。
 また自分で危険とも判断したら、行政から発表がある前でも自主的に避難することも呼びかけています。
 これから本格的な台風シーズンが到来しますが、この総合防災訓練を機にハザードマップを見ていただき、ご家族や近くの皆さんとともに、更に危機管理に対する意識や考え方を高めて頂きたいと思います。
 防災•減災に対する考えは『地域の力であり、文化』だと私は思っています。

△段ボール製簡易ベッドの作成に挑む職員、10分かからず完成しました。





△百人乗っても大丈夫?副町長と私が寝てみました。副町長は身長の大きな人代表、私は体重がちょこっと重い人代表です。250kgまでは大丈夫とのことでしたが、恐る恐る昇ってみました。





△皆んなで座って強度を確かめます。





△動画による職員研修、日本経営協会森さんの映像による研修です。対策本部の立ち上げから対策について注意すべき点など教えて頂きました。




  
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Posted by 大屋誠 at 13:52Comments(0)上松町

2020年08月23日

寝覚の床PR『想ひ出の行方』を観て

 寝覚の床発展会の皆さんが中心としてクラウドファンディング(注)で作成した映画『想ひ出の行方』の上映会があり観に行ってきました。
 あらすじは、孫娘が病床の祖母をベッドサイドに訪ねて見舞うシーンから始まります。都会で舞台女優を夢見て、アルバイトをしながら頑張っている娘さん、これはこの映画で主役を務める当町出身の大塚結生さんと重なります。
 その娘さんは、祖母の病状を心配しながら初めての舞台の主役に向けて稽古に毎日暮れます。舞台初日を迎える中で祖母は亡くなり、死に際に会う事が出来ませんでした。
 祖母の遺品を整理する中で、寝覚の床を背景とした祖母の若い時の写真を見つけ、祖母が辿った思い出を訪ねるというものです。
 あまり描くとこれから観る人へのネタばらしになってしまうのでこれくらいにしておきましょう。
 この映画で都会で暮らす娘さんと老犬を飼っている婦人との出会いの一コマがあります。““coco ”(ココ)という羊のようなモフモフとした大人しい老犬が登場します。この老犬は登場シーンは都会で主人公と触れ合うだけで登場します。実は上松町にロケに一緒に来た際に亡くなったとの事です。
 犬の年齢で14歳との事でしたが、最後のメイキングシーンで山を喜んで駆け巡る姿も印象的でした。祖母が亡くなるという設定以上にショッキングで、作った話?とも思いましたが、見浦和尚さんに聞くと本当の話で近くのセレモニーセンターでスタッフの皆さんに見送られてペット葬が行われたそうです。何か不思議なご縁も感ずる映画でした。
 今後、機会をみて上映するという事ですので是非ご覧ください。地元の皆さんもエキストラとして出演していますし、寝覚の床以外の上松町の見たところの風景だなあと思える風景もありますので一度ご鑑賞ください。
(注)クラウドファンディング=ある目的を達成するためにインターネットを通じて不特定多数の人が少しずつ資金を集めること。
△事務局のNPO木曽人の小林さん


△寝覚の床に通じる臨川寺の見浦住職さんの挨拶。和尚さんも重要なエキストラで出演していますよ。



△ポスターです。主役の大塚さんの活躍を期待します。上松の若い力が羽ばたいています。





  
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Posted by 大屋誠 at 12:55Comments(0)上松町

2020年08月21日

麒麟が来る

 毎日出勤前にウオーキングならぬ遠回りして歩いています。途中、必ず“大山祇神社”(通称:やまのかみ)にお詣りしてから、出発するのが日課となっています。
 当町の面積の94%が森林ですので、ここにお詣りすれば、大方のところは安寧で、森林以外の残りは気を引き締めるためと自分勝手に思いながら、少しずつ出来上がっていく新庁舎を見ながらのお詣りです。
 その途中、民家の庭先に桔梗が咲いていました。そういえば、NHKの大河ドラマ『麒麟が来る』の主人公の明智光秀の家紋だったなあと思い出し、思わずシャッターを押しました。
△桔梗の紫色がひときわ眼を引きます。



 再開されるドラマも、どういう展開がされるのか、裏切者との印象が強い明智光秀像が新しく描かれるのか今から楽しみです。
 歴史は勝者の論理で語られるのがほとんどですが、今回のコロナ禍は勝者も敗者もなく未来から振り返った時にどう評価するのでしょうか。私たちは歴史の中にいます。

   
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Posted by 大屋誠 at 13:24Comments(0)プライベート

2020年08月21日

友来たり

 昨日、宮島財務政務官が久しぶりに訪ねて来られました。宮島さんは参議院議員(比例区)として、財務省の政務官として活躍されています。
 一期目ですが、日本臨床検査学会から推薦され参議院議員選挙で当選されました。財務省というちょっと畑違い(本人曰く)のところですが、財務省財務政務官として活躍されています。出身地は下伊那郡泰阜村で、奥様とお父さんが今でも住んでおられます。
 お盆にも帰れなかったとの事で遅い帰郷となりました。宮島さんとは二度一緒に仕事をさせて頂いていますが、明るくとても気さくな方です。
 財務省という性格上、数字を述べて答弁する事がありますが、「就任早々に桁を間違えて答弁して慌てて訂正した事もあったよ」など笑って気さくに失敗談を話す彼は以前の通りでした。
 コロナの話や先日の豪雨の話など少ない時間でしたが意見交換出来ました。
 政府の中枢で仕事をしていますが、お互いの健康と無事を確かめ合った時間となりました。

△記念写真撮りましたが、お互い息をしない様に注意して(レントゲン撮影の時と同じ)撮影しました。





   
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Posted by 大屋誠 at 12:58Comments(0)上松町

2020年08月18日

まだ見ぬ風景へ(B&G財団舟艇機材配備式)

 17日、B&G財団からカヌー、サップ及び救命胴衣等をいただきました。正確には3年間、上松町海洋センターで借りてその後正式に引き渡されるというものです。
 財団本部から菅原理事長、事業部の鈴木係長が来町されて式典が行われました。菅原理事長から「上松の素晴らしい自然の中で大いに楽しんで」という挨拶がありました。
 カヌーが6隻、立って乗ってパドルで漕ぐサップ(sup)が5台、それに漕ぐパドル、救命胴衣など合計で約100万円の器材です。
 私が3年前にB&Gサミットに出席した際、全国各地の活動報告の中にカヌーを使った紹介ビデオがあり、一緒に行った植原教育長に話したことで実現した今回の配備式です。実は植原教育長も同じ思いを30年前からしていたとのことです。
 最近、上松の子どもたちが自然、特に川から遠ざかっているような気がします。挨拶の中でも申し上げましたが、夏の思い出といえばキュウリと味噌を持って一日中川で友と遊んだ事を思い出します。
 山に囲まれ、木曽川が北から南に貫いて流れる自然豊かな上松で育っているのにもったいないと思います。
 今回、配備されたカヌーを使って川面から上松の違う風景が見られる事になれば、子どもたちにとっても、そうした風景を見た事がない大人にとってもきっと違った魅力を感じさせてくれるかもしれません。
 木曽八景の一つ『木曽の桟』などは当面の最適地かもしれません。秋の紅葉の中、旅人が恐る恐る渡った場所を下から見る事ができればどんな風景が目に入ってくるのか楽しみです。
 クラブでは早速29日に『木曽の桟』で浮かべてみるそうです。興味のある方は是非教育委員会までご連絡の上試乗ください。

△菅原理事長さんの挨拶



△配備された器材



△fくんサップの進水式、私はカヌーをやりましたが、皆さんチンを期待していたようですが、応えられずにすみませんでした。
*チン=カヌーがひっくり返る事



△集まってくれたクラブの子どもたちと記念写真



△早速、Hコーチから救命道具の付け方など習っていました。




  
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Posted by 大屋誠 at 09:32Comments(0)上松町

2020年08月16日

語り継ぐ(その3)

 この話は以前載せた事があると記憶していますが、戦争の酷さや人の運命というものを考える上で強烈に記憶に残っているので再度掲載したいと思います。
 社会部厚生課恩給援護係に勤務して3年ほど経った時のとある日、一本の電話がかかって来ました。厚生省援護局からの電話、「ソビエトに抑留されて現地で亡くなった人の長野県関係者の遺骨が判明した。」「ご遺族に報道発表について希望の有無を確認して欲しい」との事でした。
 当時、抑留者の遺骨収集が冷戦を終えてシベリアでようやく始まったとの記事を見た事がありますが、どうも聞くと初めての確認出来た方らしい。
 早速、県外のご遺族の方に引取りについてお聞きすると、引取りの意思はあるが、マスコミには知らせないで欲しいとの事でした。
 この旨、厚生省に連絡しご遺族と日程調整をして私が東京厚生省経由でご家族の元にお帰り頂くこととしました。
 その日が明後日という時、もう一本、厚生省から連絡がありました。「中国残留孤児の家族が明後日、羽田に着くので迎えをお願いしたい」との事でした。
 中国残留孤児の迎えは出身地の都道府県が行うとされているので、担当の職員が行くこととなったが、帰国される中国残留孤児の方は何とシベリア抑留で亡くなられた方の娘さんだったのです。
 何という偶然、こんな事があるのかと思いました。後、2〜3年で戦後50年を迎えようとする同じ日にそれぞれ行き別れた父は家族のもとに戻り、娘は母国の土を踏むという、運命というものを感じざる得ませんでした。
 娘さんは帰国希望であったのですが、ご家族は中国で暮らしに困らない暮らしをしているならという気持ちで身元引き受けを拒否していました。
 それも家族の思いやりから来ている情の深さだと思います。身元が判明しても様々な事情で引き受けしないご家族の方々がいたのも現実でした。
 帰国の事実を家族にお知らせした方が良いのか、悪いのか、厚生省から遺骨を引き取ってご家族が住む住所に向かいました。
 白木の箱に入った遺骨はとても大きいものでした。それはシベリア現地でダビに付して、足から頭まで全部を収骨しているからとのことでした。厚生省から『大きな風呂敷を持って来て』という指示があったので意味が?と思いましたが、遺骨が入れられた箱を見て納得しました。
 厚生省から出て新幹線に乗っている間中、ずっと胸の前に抱いて、娘さんの事をお知らせすべきかどうか考えていました。
 今は県外に住むご家族が住む家の前にタクシーで乗り付けると、奥さん、息子さんなどご家族が玄関前に出ていて礼服を着て迎えてくれました。
 私が「今日、◯◯さんが、シベリアから帰って来ましたので、お送りしました。」というと、奥さんからお礼の言葉がありました。
 私はその後に意を決して「これを申し上げて良いのかと思いましたが、今日娘さんが羽田に中国から帰って来ます」と伝えました。
 それまで冷静であったお母さんが聞いた途端に泣き崩れました。私は「この事は本来伝えるべきことかと思いましたが、お父さんが帰って来てという日にあまりにも偶然にも偶然で、家族が一緒にという亡きお父さんの気持ちがあったのかもしれません」と伝えました。
 帰庁して上司にこの旨を報告しましたが、上司は特に咎める事もありませんでした。
 運命ともいうべきものが有るとするならば、この家族に降り注いだ余りにも過酷な体験はどう写っているんでしょうか。
 その後の事は知りませんが、家族が今でもお元気で暮らしておられることを祈念しています。

   
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Posted by 大屋誠 at 08:20Comments(0)

2020年08月14日

語り継ぐ(その2)

 その日、ある女性が私の職場を訪ねて来ました。前日に新聞社から発刊された中国残留孤児の写真付きの本を見せて欲しいとのことでした。
 確か開くとA3くらいの本で5〜7センチの分厚い本だったと記憶していますが、その本を見せて欲しいとのことでした。白黒の顔写真に別れた時の経緯(とは言っても養父母の話で聞いた事)が書かれていました。
 女性は、丁寧にページをめくりながら見ていましたが、余りにも厚いページ数で、そのうちに「ゆっくりと見たいので貸して欲しい」とお願いされました。
 その本は一冊しかないので困惑しましたが、あまりにも真剣な眼差しに上司と相談して期限を区切って貸し出すことで約束して貸し出しました。
 彼女の話をお聞きすると、中国に満州開拓団で渡って終戦の逃避行の折に別れてしまった娘さんをずっと探しているとの事でした。肉親探しの訪日団が来るたびに東京へもいつも出て行って手がかりを探しているとの事でした。
 そんな中での肉親探しですので、はっきり言って難しいと思っていましたが、何と貸し出した翌日に彼女から興奮気味に「娘がいました!どうしたら良いですか?」と電話がありました。
 訪日調査での難しさに“刷り込まれた記憶”というのがある事も知っています。つまり、別れた時があまりにも幼い故に周囲の他人が言ったことを本人の記憶としてしまうとかがあるので慎重にしなければなりません。
 興奮気味に来た彼女を落ち着かせるように事情をお聞きました。聞くと別れた当時の状況が全く同じという事でした。でも、訪日調査で毎年東京まで行っていた彼女が娘と思しき人と会えなかったという事をお聞きすると、「毎年東京まで行っていたが、その孤児が調査に来日した時は手術して身体の調子が悪く行けなかった唯一の年でした」とのことでした。
 聴取後、当時の厚生省に連絡を取り調査を進めてもらうことにしました。当時の直接の担当は私ではありませんでしたが、担当の先輩は「顔が瓜二つ」ということで、本当のお母さんであればと係員が皆んな思っていました。
 その後、国の調査の結果、親子関係である事が判明しました。中国で別れてしまった経緯は家族全員が帰国する事は難しいと思った父が母親に話さず中国人の養父母に預けたとの事でした。それが元で帰国後、夫との関係がうまくいかず長男を連れて別れてしまったと彼女は喋ってくれました。
 残留孤児として判明した娘さんは既に未判明孤児として我が国に帰って来ていたと記憶していますが、母は引き取って暮らしたいという希望はあったようですが、家族が反対したとお聞きしました。
 父は「子どもを助けたい」、家族は「安心した暮らしができているなら」という事もあったのかもしれませんが、戦争で引き裂かれた家族の絆を思うと忘れる事が出来ない思い出です。
 娘を思う気持ちと、ただ一回自身の体調が悪く毎年欠かさず行っていた訪日調査に行けなかった時に娘さんが帰って来ていたという事に運命のいたずらを感じます。
 その後、そのご家族はどうなったのかは知りません。私は実体験としての戦争という記憶はありませんが、仕事を通じて体験した事があります。
 私が伝えられることは僅かかもしれませんし、プライバシーに関する事もありますので伝えきれないかもしれませんのでお許しください。
 あと、もう一話後日伝えて行きたいと思います。
 
 
   
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Posted by 大屋誠 at 23:05Comments(0)