2020年04月25日

上杉鷹山公に学ぶ

 本ブログで幾度か米沢藩9代上杉鷹山(治憲)公を紹介させて頂いてます。
 第35代アメリカ大統領ジョンF・ケネディ氏が日本人記者から「尊敬する日本人は?」と聞かれた時、『ヨーザン ウエスギ』と答え、居並ぶ日本人記者「?」、「ヨーザン ウエスギ?」となったという逸話が残っています。その真偽はいろいろ言われていますが、その様な事を残すにふさわしい名君であった事は間違いない方です。
 上杉家と云えば「上杉謙信」が戦国武将として、家臣の「直江兼続」も智将として有名です。関ヶ原の戦いで直接関ケ原で戦わなかったものの上杉景勝が西軍についたため、戦後、幕府によって米沢に移されてしまいます。
 移封で半分になった石高にも関わらず、上杉家は家臣団をそのまま引き連れて米沢入りしました。当然、藩財政は火の車で、9代鷹山公が継いだ頃は幕府に藩そのものを返すことを考えていた様です。毎年の利子が藩の財政を上回り、利子さえ返せない状況が続いていたのです。
 そんな時に九州の日向高鍋藩の部屋住であった鷹山公が養子として入ったのですから、戦国以来の名家とはいえ本当に大変なものを引き受けてしまったと思ったかもしれません。
 彼は竹俣当綱(たけのまた まさつな)、莅戸善政(のぞき よしまさ)の二人を据えて改革に当たりました。新田開発や米沢織を作ったり、老人や子どもでも世話が出来る鯉を飼って売ったりといろいろやって財政を立て直しをしました。
 その間、家老から反発を喰い、家老職の七家騒動があったり、豪商に対して借金返済を長期にわたらせるなど相当に大変な事もやりました。
 質素倹約もその一つで、着るものは人に笑われようと木綿で通し、食べるものも一汁一菜を通したそうです。
 藩財政がようやく落ち着いた頃、東北地方を中心に江戸時代最大の飢饉と呼ばれる“天明の大飢饉”が起きます。一説には約140万人我が国の人口が減ったという大飢饉です。その時には浅間山の大噴火もあり、世情が大混乱に陥ってしまったそうです。
 東北各藩の領民が飢えて死んでいく中で、米沢藩だけは備蓄米を領民に供出して一人の死者を出すことなく、飢饉をやり過ごしたそうです。 
 平時から危機的な状況が来る事を予測し、自ら行動していたリーダーの姿は今にも通ずるところがあるんだと思います。また、それに従った忖度しない家臣も同じです。
 その様なこと考えているうちに、そういえば小泉元首相が言っていた『米百俵』の人づくりの精神の話も越後の話でした。また、コンピューター付ブルドーザーとも呼ばれた決断力のある田中角栄首相も越後の人でした。
 越後は雪深い故に普段は寡黙で、黙々と行動し備え、蓄え、いざ何かあった時に対応する能力が自然と備わっているのではと、上杉鷹山公から田中角栄元首相に通じる歴史的な人物像を見て思いました。
   
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Posted by 大屋誠 at 08:55Comments(0)